闘病5年間の記録  日赤医療センター
日赤医療センター
日赤医療センター

病院関係のことも紹介しておきたい。東京広尾の日赤医療センターである。

実は、2013年に内科のクリニックができるまで、日赤医療センターが自宅から最も近い病院だった。この写真は自宅からとっていてPCのアーカイブに入っていた日赤の写真である。広尾に住むことにしたのはさかのぼって1994年。もう20年も前のことである。それまで練馬区に住んでいたのだが、共働きで二人とも帰りが遅く、タクシーでの帰宅も頻繁だった。一人一回のれば約7,000円。月に10万円を超過することもあった。その分を住宅費に充てれば、通勤も楽になると考え都心に出てこようと考えた。コストを変えずにライフバランスの向上を図るための方策だったのである。更に、2年後、給料を支払ってくれる会社が変わり、健康保険も変わったこともあり、数年前に一度だけ人間ドックに来た日赤を行きつけの病院にしてしまった。日赤は、全国にも名の知れた総合病院であるが、だからといって病院であることに違いはないと考えていて、診断してもらうときに長時間待たなければならないことが多いことを受容すれば良いだけのことだろうと思っていたのである。それから、ほぼ毎年人間ドックを受検してドックの看護師さんから覚えてもらうことも繋がっていた。何という贅沢な環境を作ることができていたのだろうと今更ながら感心する。今回は、良い病院近いところに住むというリスクヘッジが生きたともいえるかもしれない。

退院後、引っ越して少し離れたがそれでも歩ける距離。日赤には、足を向けて寝られない。

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まるで映画の手術室

車いすに乗って4階の手術室に入っていったときのことは、検査と手術のページでも書いたが、少し付け加えておく。 手術室に入るときは、被術者の取り扱いは病棟の看護師から手術室のクルーにバトンタッチされる。その手術室クルーに導かれて、部屋の中に。と、思ったら、50m道路かと思う広い廊下が延び、両側に6室ずつのチャンバーが並んでいる。この何というかインフォグラフィック的光景には、正直圧倒された。未来の医療施設!この圧倒され方は半端ではなかった。最新技術が適用されるという安心感がぐっと強まったのである。後から、調べてみると、久米設計+大林組が2011年3月に完成させた最新の安全技術を駆使したそれこそ最先端の病院だったのである。目の前の病院だから建て替えされていることはもちろん知っていて、新しくなってからも来ているのだけれど、改めて認識した。余談だが、建築関連の仕事をしていて、二つの大学病院大の建て替え計画にプロポーザルを提出したことがある。落選したのだが、改めて持っていたこの分野の知識があまりにも古くまた不十分であったことを認識でき、当選しなくてよかったと思ってしまった。

医師

冒頭で、伊藤先生のことを書いたが、入院してからも凄い人で評価が一貫している。何が凄いのかは書いてないけれど。映画に出てくる凄腕女医という感じか。とにかく、私は、彼女の決断で助かったと信じている。それだけでも凄いと言わせてもらおう。

実際に、執刀してくださった、井上医師、佐藤医師。伊藤先生のサポートをしていらっしゃる加藤医師。麻酔の折原医師、細川医師。直接は関わって頂けなかったが、かの幕内院長。皆さん、精力的で献身的な方々である。これからのページで彼らのことを書き加えるエピソードがいくつも出てくると思う。

皆さんには、感謝しかない。

看護師

看護師さんのことを書こうと思っていたのだけど、難しい。何せ、延べ60人を超える方が担当してくれたのだから。みんな、ホスピタリティあふれるサービスをしてくれた。中でも、夜勤で担当してくれた看護師さんにはお世話になった。趣味が同じで、暇なときに話に来てくれた娘もいた。 ほんとに、ありがとう!

手術件数

2014年8月の時点で日赤医療センターのウェブサイトを見ると、今年一年間の日赤での胆嚢・胆管癌や膵臓癌関連の手術件数は、203例で、膵頭十二指腸切除を18例実施したとなっている。私の手術もこの18例のうちにカウントされているはず。意外と少ないのは、手術することで回復する可能性がない人が多いのだろうと思う。改めて、幸運に感謝。